【 百寿 竹山正雄さんへ心からの敬意と感謝を込めて…( 23/03/01 tue )】「6年生が満州の歴史を勉強しています。竹山さんをご紹介いただけないでしょうか?」徹明さくら小学校からのご依頼があったのは、本年1月末のことでした。当時25歳、旧日本兵として満州で終戦を迎えられた竹山さん。自宅でショートメッセージを収録させて頂きました。戦時中の貴重な資料も数々ご提供いただきました。「感想文が出来ましたので」と校長先生から連絡を頂き、これをお届けに上がったのは先週金曜、2月24日のことでした。これが永遠のお別れとなってしまいました…。

「命ある限り、戦争を語る…。」2018年8月1日付・岐阜新聞記事のタイトルと共に竹山さんの戦争体験談が掲載されています。戦後日本の混乱期から懸命に働き抜かれた竹山さん。27日月曜に訃報を伺い自宅へ弔問に伺うと「子どもたちの感想文、父は時間をかけて最後まで読んでいました」と、ご遺族より伺いました。命ある限り、戦争を語る。まさに次世代へのメッセージと共に、そのタイトル通りの最期でした。

地域活動にも本当に情熱を注がれました。長年にわたり、木之本小学校前の交差点に立たれ、黄色い旗を持って子どもたちを見守ってくださいました。夏のラジオ体操では、公園に集まった子どもたちを前に指導にあたられていたこと、それを見て近所の皆さんも竹山さんに倣い体操に参加されていたこと、カードにスタンプを押すために列をなす子どもたちや地域の皆さんを前にした竹山さんの爽やかな笑顔が鮮明に蘇ってきます。

私にとっても大恩人でした。26歳初めての市議選にて「こんな坊やに何ができる!?」と方々相手にされなかった中、「あんたが頑張るなら応援する!」と選挙事務所に駆けつけ、街頭でマイクを握ってくださった竹山さん。「竹山さんが応援されるなら」と、地域の空気が一変したこと。まさに今日の私の原点を築いてくださった大恩人です。

コンピューターおじいちゃん、でもありました。70代でパソコンを勉強され、ワード・エクセル・パワポを使いこなし、公民館のパソコン講座で講師としてご活躍だった竹山さん。自転車に小型プリンターの箱を乗せて颯爽と走っていかれる姿もまた元気印の象徴でした。

昨年5月4日の百寿のお祝いの席でのことでした。百歳の秘訣を「愛語」と記されたポストカード、それはパソコン自作のものでした。誰に対しても分け隔てなく、いつも笑顔で接してくださった竹山さん、地域みんなが慕った竹山さんでした。

人生百年時代、まさにその鏡のような、心から尊敬する人格者・竹山正雄さん。私もかく歳を重ねたい、そう心から思います。

本当にありがとうございました。

合掌…。