【 「則天去私」梶原拓 知事の旅立ち( 17/08/30 wed – 31 thu )】梶原知事の現役時代に県職員として随行秘書を務められた飛騨市の都竹市長が梶原さんの追悼文を出しておられます。都竹さんが梶原知事のそばで過ごされたとすれば、私は知事引退後の、今となっては晩年の12年をそばで過ごしたひとりとして、その素顔を残していく使命を感じています。今日も報道による多くの追悼記事が掲載されています。

知事引退後の梶原さんは、日本再生研究会「再生日本」を立ち上げられ、その事務所(岐阜県庁前)までよく愛車の軽自動車ワゴンRを自ら運転して通われました。「これからは市民政治の時代が必ず来る。後世の歴史家が現代を振り返ったら、必ずそう評価する。歴史は400年サイクルで政治の主人公が変わる。直也君は市民政治の研究員としてこの仕事を手伝ってくれ」。学生時代の知事インターンを契機として梶原さんとのご縁が深まったとはいえ、社会経験の殆どない20代(当時)の自分に研究員など申し訳なく、専ら私設秘書を自認し、東京にもよく同行しました。読書家の梶原さんの手にはいつも分厚い本があり「直也君これを読むといい」と、車中で日本や岐阜の未来の姿を熱く語ってくれました。70歳を過ぎ知事を退いてもなお、梶原さんの夢は大きく膨らみ続けていました。私には到底勿体ない、しかし貴重な時間を過ごさせて頂いたと思います。そうした中で発生した県庁裏金事件はとりわけ大きな記憶に残ります。連日メディア対応に追われる中、私も否応なく事務処理を手伝うことになります。

事務処理に一定の区切りがついた頃、私が翌年の岐阜市議選への出馬を決めて梶原さんにその思いを伝えると「厳しいぞ」と渋い顔をされました。しかし、事務所を去る数日前から、私の机の上には「弁論術」とか「話す力」とか、そういった本がしばしば置かれていたのです。後日、奥様から「直也君にと言って埃まるけの本棚に梶原が手を伸ばしていたの」と話してくださいました。2007年市議初当選の深夜、私の落選を決め込んで寝ていた梶原さん。当選の一報を入れると慌ててジャージ姿で選挙事務所に現れ、周囲を沸かせました。一生涯残る良き思い出です。

その後もしばしばパソコンやタブレット、スマホやプリンターの設定、使い方など熱心に質問の電話が鳴るたびに、自宅である湊町のマンションへ通いました。事務所に勤務していた頃は大量の手書きのメモをデータ化するのが専らの仕事でしたが、これが達筆すぎて難読でした。しかし不思議なもので、慣れてくると読めるようになったものです。裏金事件以降ほぼ全ての公職を退かれた後は、それでも自宅でただひとり、黙々とこれからの時代を見据えたレポートをまとめられ、まとめたレポートを携えて東京へ出かけられては、元知事や元官僚、大学教授や若手の民間研究員などに声をかけ、積極的に様々な勉強会を主宰されました。

自宅の居間はいつも大量の書類や書籍で足の踏み場がありません。そこを愛犬イッチャン(柴犬)が、まるでいたずらっ子のようにバラバラにして走り回るのを「毎日うちは運動会」と、目を細めて眺めておられました。近所の川原町や岐阜公園、長良川の堤防にもイッチャンを連れて散歩をされました。また、よく長良橋のバス停から岐阜バスに乗り、岐阜駅の本屋へ通っては大量の本を買い求め、帰りは名鉄岐阜駅のスーパーで食材を買い込んで両手に袋をぶら下げてバスに乗り、バスを降りた先にある近所の喫茶店でやはり読書をしておられました。誰も元全国知事会長・岐阜県知事である梶原さんだと気づくことはなかったものです。

実は、晩年の10年は必ずしも健康ではありませんでした。長年の疲れか透析により週3回は病院のベッドに固定される身体になっていました。壊疽といって、足が黒く腐っていく病にも悩まされていました。それでもそんな自らの身体を「大切なのは一病息災」と言って、分厚い医学本を買い求め、それを片手にあれこれ病名やその病源を調べておられました。そして、健康医療市民会議なる新たな組織も立ち上げて「自分の身体なんだから医者に任せっきりにせず、患者自身が賢くならなければならない。情報社会、市民の時代とは賢い市民を増やすことだ」と、勉強会を開いては説いて歩かれました。

ここ数年「梶原さんと親しいと聞いたから」と、食事や面会、本の出版に係る取材を仲介する要請をいただくことがしばしばあり、梶原さんはそうした要請に快く応じられました。そうした中で「人は大輪の花が咲くと根っこを見なくなる」と時折語っていた梶原さんに「岐阜県や地方再生、日本再生のために蒔いた種にどんな意味があったのか、きちんと手記に残してほしい」と、私も会う度に説得していたところ、「情報社会、市民政治の時代を示すテキストを作りたい」と言って、100頁にのぼる原稿をwordを開いて打ち始めておられました。今となっては最期の会話となった先月も「そのためには底辺の地方議員の役割も大事だから、これからは若手・青年の地方議員とも連携していきたい。今度話す機会をつくってほしい」と要請を受けたばかりでした。

「則天去私」梶原拓 知事の座右の銘です。夏目漱石の造語と言われていますが、梶原さん自身も「農業社会の現場は農場、工業社会の現場は工場、情報社会の現場は『情場』」などと自らの造語を用いながら都市の本質を説き歩き「夢おこし県政」を牽引されました。今や馴染みの深い「道の駅」は岐阜県が全国初、また、高速道路のETCは1985年のご自身の著書「道路情報学」において、21世紀の高速道路ネットワークの姿として説かれています。また、IAMASの開設によるIT起業家たちの育成、早稲田大学とのロボット産業振興、空飛ぶ自動車の開発推奨等、いつだって夢を語り実践してみせ、ご自身の名の通り、まさに次代を切り「拓」いて旅立たれました。時の為政者に賛否評価があるのは当然のことです。しかし、幼い頃からこの世界に憧れを抱いて飛び込んだ時、いつもその先頭に類い稀なるアイディア知事・梶原さんの背中があった私にとっては、都竹市長同様に政治の師「おとっつぁん」に変わりありません。

「延命措置はしない。通夜葬儀は密葬、非公表」相変わらず難読の手書きメモにそう書き残して旅立たれたおとっつぁんらしい最期です。8月31日、今日はおとっつぁんの旅立ちです。真夏の青く澄みきった大空を見上げ、手を合わせています。

(写真:初当選の夜・2007年4月23日未明、愛車ワゴンR、取材に訪れた記者に「夢」のメッセージ)